曲率


「曲がっている」という意味の精密化(ガウス球)

曲率とは何かというと、これは簡単に言うと、幾何学的対象の曲がり具合を測るものであるというふうに言うことができるであろう。つまり、曲がっているものがどれだけ曲がっているかということである。しかし、数学的に、正確に曲率というものを理解しようとしたときに、まず我々が気をつけなければならないのは、曲率、つまり数学的な意味でのそれが測っているのは、我々が日常的に思っている曲がっているという度合いとは少し異なるということである。つまり、数学的な曲率が測っている曲がり方というのは、我々が思っている曲がり方とは少し違う。

例えば簡単な例で、その違いというのを見てみよう。まず、円柱と球面を考えてみる。この二つはどちらも我々の日常的な意味では、曲がっている曲面である。要するに、平坦な平面とは明らかに違って、その空間的な配置は、三次元的である。つまり曲がっている、曲げられている。しかし、数学においては、両者の曲がり方は区別される。数学的な意味での内在的曲率を考えるとき、前者、つまり円柱は曲がっておらず、後者、球面は曲がっている、というふうに判断される。では一体、この両者にどんな曲がり方の違いがあるのであろうか。

物の曲がり方というものを精密に扱うために、我々はまず、曲がっているということをどのように観察するか、ということを考えてみよう。我々はそこで、法線というものを考える。つまり、与えられた曲面について、法線を考えることによって、その法線の向きの変化によって曲がり方を捉えようという考え方である。 例えば平面であれば、法線の向きは常に一定であるし、球面や円柱であれば、法線の面は測る点の位置を変えるごとに変わっていくだろう。 この法線の向きの変化を通じて、曲面の曲がり方を観察しようという考え方は、我々の直感にとっても納得のできる考え方だと思う。それでも、この法線による曲がり方を捉えるというアイディアによって、我々は漠然とした曲がり方から、法線の向きの変化という、具体的な捉え方ができるようになったということに注意しよう。

さてでは、円柱と球面の曲がり方について、この法線で曲がり方を観察するという方法論を通じてみると、どのような違いがあるかということを考えてみよう。そのために、典型的にはガウス球というものを用いる。これはどのような方法かというと、まず法線について、その方向だけを気にすれば良いのであるから、長さは単位1に取る。つまり、曲面の各点において、その三次元的な向きというものが単位ベクトルで表現されていると考える。次に、これらは単位ベクトルであるから、その曲面の各点に配置されている法線ベクトルを、その始点を統一すれば、単位ベクトルの先というのは、一つの単位球の一点を指すことになるだろう。この単位球面のことをガウス球と呼ぶのである。

こうして与えられた曲面上に存在している全ての法線ベクトルを集めて、始点を統一させたときに、指示される終点全体は単位球面上の何らかの領域を占有するであろう。さて、円柱と球面の場合に、法線ベクトルの全体がどのような像を単位球面上に描くかということを考えてみよう。円柱の場合、これは一次元の円周になる。一方で、球面の場合は、球面そのものが像となる。この両者には決定的な違いがある。つまり、円柱というもののガウス球面上の像というのは一次元であるのに対して、球面のガウス球への像というのは二次元になるのである。そして、この次元の違いこそが、我々が最初に述べた円柱と球面の曲がり方の本質的な違いを表しているのである。

数学が解き明かしたところによると、我々は、内在的な幾何学によって、このガウス球面の像が一次元か二次元であるかということを区別できるのである。これは驚くべきことではないだろうか。現在ではこれは、ガウス驚異の定理と呼ばれている。我々がやったことは、空間内における曲面の三次元的な情報を用いて、つまり、法線の向きの変化というものを球面上で視覚化するということであった。これはもちろん、考えている曲面が空間的にどのように埋め込まれているか、つまり、空間内でどのような形状をとっているかという情報に他ならない。

だから明らかにこのガウス球面上の像の次元というものは、曲面の空間的な形状に依存しているというふうに考えるわけである。しかし、内在的幾何学、つまり、曲面上のみを考え、曲面が配置されている外部の空間を一切用いずに展開される幾何学において、実は、このガウス球面上の写像の次元、これは何度読むのも大変なので、本質的に曲がっているかどうか、あるいは内在的に曲がっているかどうかという言い方をしよう。つまり、外在的な情報を用いた曲がり方の情報は、実は内在的に判断可能ということなのである。

では一体なぜ、外在的な曲がり方の一部の情報であれ、内在的に判断できるのか、ということを考えてみよう。もちろん、外在的な情報すべてが内在的に再現できるということではない。例えば球面に接しているベクトルを、球面に沿って動かした場合、何が起きるのかを考えてみる。ベクトルが球面にそのまま接しているためには、その方向を変える必要がある。この方向の変化というのは、球面に垂直な方向と、平行な方向へ分解できる。接するということを考えずに動かしたベクトルを、その点での接平面に射影することを考えてみるとよい。その時、接平面に垂直な方向の情報は失われる。一方で接平面内の情報は存続する。垂直な方向に関する情報は内在的幾何学では取り扱うことが出来ない。このように、三次元空間の視点で見ると、幾何学的な情報の内で、外在的なものと内在的なものがあると分かる。内在的な幾何学に移る際に、外在的に得られる情報は捨てられてしまうのである。

とはいえ、ガウス驚異の定理は驚くべき主張であることは否定できない。

接続と経路依存性

本来、空間の曲がり方というのは、直感的な意味においては、その空間が持つ点の三次元空間における配置から生じているものである、というふうに我々は考える。例えば円柱であったり、球面であったり、トーラスであったりといった、一目見て曲がっていると思う空間というのは、どれもそのそれを構成する点の空間的な配置が、平面とは明らかに異なる、三次元的な構造を持っているのである。

しかし、この曲がっているという概念の中にも、実は区別が存在するのである。我々が単に見た目で曲がっているというふうに考えていた曲がり方は、実は質的には二つの異なるグループに分けることが可能である。円柱というのは、平面にそのまま広げることが可能である。一方、平面は曲げたり、縮めたり、拡大することなしに、球面やトーラスに敷き詰めることができない。つまりこのことは、三次元的な曲がっているという大雑把な把握の仕方の中に、実は異なるカテゴリーに分類されるべき曲がり方があるのではないか、というヒントを与えてくれる。

曲面、例えば円柱と球面の曲がり方の違いというのは、その法線の向きの変化によって捉えることが可能である。空間の各点における法線を考え、その法線を単位球面に射影することによって、空間全体の法線の向きが単位球面でどのように表現されるかを見ることが可能である。円柱においてそれを実施すると、円柱のあらゆる法線を単位球面に射影したものは一つの円になる。一方で、単位球面を写映したものは単位球面になる。これは重要な違いである。つまり、法線の空間的な広がり、その変化の仕方というのが1次元であるか2次元であるかということが差なのである。

このある空間に対するすべての法線の集合を考えるという方法によって、空間の曲がり方を区別することが可能である。この曲がり方の区別というものは、空間の外部の空間を想定しているという点において、いわゆる外在的な性質である。 しかし、非常に興味深いのは、この曲がり方の区別というものを、内在的な性質によって区別することが実は可能であるという点にある。つまり、我々は本来、法線というものの変化の仕方、その様態によって、空間の曲がり方を考えているわけだが、しかし実は、その法線が寄り集まった集合が、一次元であるか二次元であるかということの差というのは、実は法線そのものを見なくても、内在的に判断できる、ということがわかるのである。これこそが、内在的幾何学が可能である証拠にほかならない。

外在的な性質から内在的な性質を抽出する方法は以下のとおりである。まず、我々は法線というものが接平面を決めるという性質に注目する。次に、ある一つの接平面から別の接平面への射影を考えることによって、接続という概念を生み出すことができる。実際、空間における一つの接平面を別の接平面へ射影することは、法線の情報から可能である。つまり、法線の方向の変化という情報から接続という内在的な情報を得たわけである。

接続という概念は、内在的な性質であるので、外在的な空間を必要としない。もちろん、今の射影を用いた例のように、外在的な性質から定めることができる接続というものは存在するが、それは要するに、接続という内在的な性質の中から何を選ぶかという点において、外在的な情報を用いているにすぎない。接続という概念そのものは、数学的には、多様体の接ベクトル空間がどのような関係を持つのかという内在的な性質からのみ定義することが可能である、ということに留意しなければならない。

こうして我々は、法線の方向の変化というものから、接続という内在的な情報を抽出することに成功した。しかし、この接続という概念を使って、一体何の利益があるのか、という問題が次に出てくる。法線を捨てたので、ガウス球を用いることはできない。ここでヒントとするのは、先ほど述べたように、法線の総体が一次元か二次元かという区別である。

もし、法線の方向が一次元に集約されているのであれば、曲面をどう動いても、結局は一つのパラメータの変化で法線の方向を指定することが出来る。パラメータの観点から言えば、曲面をどう動いてもそのパラメータは増えるか減るかしかない。つまり一次元である。一方で二次元の場合。最終的には同じパラメータに到達するとしても、その経路は無数に存在する。一次元のパラメータのみの場合、法線の方向変化はf(α)f(\alpha)で表される。曲面上をどんな経路で動いたとしても、途中で法線が取りうる値の一覧は決まっている。一方で、二次元で、法線の方向変化がf(α,β)f(\alpha,\beta)で表される場合、こちらも一次元の場合と同じで、終点での値は決まっているが、そこに至るまでにffがどんな値を取るのか、その一覧は、経路に依存して変わる。

重要なのは、この一覧の中身である。なぜなら、接続は法線がその時に向いている方向に依存して内容が定まるからである。(これは射影の例を見れば分かりやすい。)したがって、最終的に同じ法線方向f(α,β)f(\alpha,\beta)に至るとしても、その途中でffが取る値によってどんな接続が行われるかが変化する。

逆に言えば、一次元の場合、どんな経路を通ろうとも接続を続けて行って得られる接ベクトルは変わらない。なぜなら終点に至るまでに法線が取りうる値は経路に関わらず決定されているからだ。(ただし逆走する場合には逆写像になることが前提である。)一方で、二次元の場合、途中で法線が取る方向は経路に依存している。したがって、終点での接ベクトルの方向が経路に依存する。

このようにして、法線方向の変化が一次元か二次元かの違いを、接続の結果の経路依存性の有無によって知ることが出来る。

ここが議論全体のターニングポイントである。

法線方向の変化が単に1次元、つまり巻物のような曲がり方なのか、それとも、どの方向へ進んでも異なる法線方向の変化が得られる、つまり「真に」曲がっているのかというのが内在的幾何学で区別できるわけである。

計量と空間の形状について

例えば、球面には、単にそれを位相空間と見たときには、計量は存在しない。また、接続すらも存在しない。しかし一方で、球面というものを考えると、当然それには形があって、曲率があって、つまりその固有の形状というものが存在するようにイメージするのであるが、これは一体どういうことなのであろうか。ここで誤解してはいけないのは、数学がやっているのは、概念の分解、つまり、構造的に一つの概念を分解することであって、本質的には分類だということを忘れないことである。

つまり、私が今思い描いている球面というものに対して、数学はそれを様々な構造に分解して、それらの間の関係というものを分析する。直感的に言えば、球面という我々の一つの直感的な構成物を成立させている構造を一つ一つ明示し、分解してしまうのである。あるいは、それが本来持っていた構造を忘却することによって、純粋な構造を取り出すというふうにも言えるだろう。例えば球面S2S^2の場合、我々はこれを単に点集合として見ることもできる。そのとき、本来球面が持っていた計量や、あるいは位相構造、あるいは接続というものは、すべて忘れ去られ、最終的にはただの点の集合として扱われることになる。こうして、忘却によって我々は純粋な一つの構造というのを取り出すことができる。そうして取り出した構造に対して、一つずつ別の構造を付加していくことにより、少しずつ球面に近づくという考え方をする。こうすることによって、数学は一つの対象について、さまざまな構造が付加されたものとして、それらの間の関係性というものを理解することができるようになる。

球面というものを考えたときに、ともすれば、我々はそれが三次元空間内に浮かんでいるあの曲がった球体として、心象風景を作り出すということがあるかもしれないが、数学でやっているのは、それらをパーツに分解し、また、それが本来持っている構造を忘れ去ることによって、一つの構造、つまり他のさまざまな別の幾何学的対象が持つものと共有しているような構造を取り出すということである。数学が注目する構造というのは、さまざまな幾何学的な対象に共通して現れるようなものである。

球面に対して、様々な微分構造や、あるいは計量構造が入れられるということを考えてみたときに、我々が認識しておかなければならないのは、このときの数学的に言っている球面というのは、あの丸い球体のことではなく、そこから様々な構造を忘れ去った後に残る一つの土台のようなものである。したがって、それを我々の単純な心象風景のものと同一視することはできない。

球面上に微分構造や計量構造を入れるというとき、我々は単純な心象風景の球面を取り扱っているのではなく、忘却によって得られる純粋な構造の間の関係について述べているのである。これは高度に数学的な議論であって、それを具体的なあの球面と関連して考えるのは誤りである。また、さらに付け加えると、数学的な曲率というのは、心象風景の中にある球面のあの曲がり方というものを表現しているのではなく、その曲がり方のうち、内在的なもの、あるいは本質的な曲がり方と言ってもいいのかもしれないが、それを測るものであって、我々の心象風景に登場する目に見えるような曲がり方を測るものとは、また別のものであるということを認識しておく必要があるだろう。

曲率とヤコビ場

曲率の定義は非常に抽象的で分かりにくい。これは数学で良くある「効率的な」定義である。

数学における効率的な定義を理解するためには、通常そのような定義は、結局別の何か分かりやすい形式に登場するということを利用するのが一番良いように思われる。例えば曲率の場合は、曲率の定義そのものを見ても抽象的でわかりにくいのであるが、ヤコビ場とその時間発展方程式であるヤコビ方程式の中に曲率が注目するという事実によって、曲率を理解するというのが最もわかりやすい道筋だと考えている。というのは、というのはそもそもそのようなわかりやすい方程式なり、何らかの議論の中で現れる要素を、抽象的に取り出して汎用化、つまり効率化したのが数学における定義として取り上げられる、という過程になっているからだ。

ヤコビ場というのは、多様体における測地線についての場である。測地線というのは、ここでは多様体上の最短経路というようなイメージを持っておこう。この最短経路は、出発点と初速度が定まれば、一つに定まる経路である。したがって、出発点や初速度を任意に変えれば、別の経路が選択されることになる。ヤコビ場というのは、一つの基準の測地線を選んでおいて、その出発点あるいは初速度を微妙に変えることによって生まれる別の経路が、基準の測地線とどのような関係にあるかを記述するものである。

ここで誤解してはいけないのは、ヤコビ場というのは、基準の測線に対して一意的に決まるものではないということである。ヤコビ場は当然、基準測線に対する初期位置、あるいは初速度のずらし方によって変わってくる。なぜなら、それによって生まれる別の経路が無数に存在するからである。したがってヤコビ場の定義が定める場というのは、基準測地線上に無数に存在するわけである。

つまり、我々がヤコビ場について語るときは、基準測地線に対してあらゆるずらし方を考慮した無数のヤコビ場を相手にしているということを認識しておくのが重要である。測線自体は一次元であり、そこから得られる情報というのは少ないわけであるが、あらゆるずらし方、つまり無数の測地線を基準測地線の周りに考えることによって、空間のすべての幾何学的な情報、ここではそれが結果的に曲率になってほしいわけだが、それを欠損なく情報をすべて取り出すことができることが期待される。

ヤコビ場を一つ取ってみると、それは基準測線に対して、少しずれた測線を考えていることになる。そのずれの総体がヤコビ場を規定しているのである。つまり、基準測線の各点において、少しずれた測線へのそのずれそのものを与えるのがヤコビ場なのである。ここで重要なのは、ずれの総体を考えていることであって、単にある一点において、ヤコビ場の一つのベクトルを取り出すと、それはただのベクトルであって、いかような値でも取り得る。しかし、ヤコビ場というそのずれのベクトルの総体を見たときに、それが測直線に合致しなければならないということによって、ヤコビ場が規定されるわけである。つまり、単にある一点だけを考えれば、確かにそのずれのベクトルというのは、任意の値を取り得るわけだが、基準測線全体で見たときに、このずれというのは、点でバラバラな値を取ることはできない。なぜなら、そのずれというのが最終的に基準測線に対してずれたある測線にならなければならないからだ。点でバラバラのずれを取れば、その結果得られる曲線というのは、測線になるとは限らないのは当然であろう。

そこで気になるのは、総体として考えてたときに、ヤコビ場というものが規定されるということは、ある一点を考えてたときに、その隣の一点を考えたときに、そこには何らかの規則性が存在するのではないかという考えである。なぜなら、すでに述べたように、ヤコビ場の各点における値というのが、バラバラに存在できるのではなく、それが測地線を与えなければならないという条件によって、変化が束縛されているはずなのである。これがつまり、ヤコビ方程式である。ヤコビ方程式は、ヤコビ場が各点においてどのように変化していくのか、その変化を与える方程式である。今までの議論について言えば、ヤコビ方程式というのは、ヤコビ場のある点に対して、その隣の点におけるヤコビ場の値がどのようなものであるかを規定するものであるわけだ。

曲率とヤコビ方程式の関係というのは、ここに現れてくる。つまり、ヤコビ方程式を規定する係数として、曲率が現れてくるのである。これはつまり、曲率というものが、二つの近接した測線がどのような関係にあるのかを記述する情報である、という解釈を可能にする。すでに触れたように、これは二つの曲線については、曲率についての部分的な情報しか与えないであろう。なぜなら、空間の自由度は広大であるにもかかわらず、二つの測軸線というのは、非常に部分的な情報を与えるにすぎないからである。 しかし、ある基準の測地線の周りのあらゆる測地線、つまり無数の曲線についての情報をより集めることによって、我々は空間における総体的な幾何学的情報を取り出すことができると期待する。

つまり、我々は、ある一つの測地線に対して、別の近接した測地線を考えて、その二つの測地線がどのように離れていくかを観測することによって、空間についての幾何学的な情報を得ることができるわけである。二つの近接した測地線がどの程度離れているかという情報にはあまり意味がない。本質的な情報というのは、それがどのように離れていくかというその離れ方の度合いの問題なのである。この度合いというのは、二つの曲線が測地線であるという条件によって、なんらかの束縛を受けるはずである。それこそが我々の知りたい情報なのである。

二つの測地線の離れ方を知ることによって、空間の情報を取り出すというのが、我々のアイデアであった。しかしこれは本質なのであろうか。つまり、なぜ二つの測地線の離れ方を見ることによって、我々は空間についての情報を得ることができるのであろうか。別の言い方をすれば、なぜ二つの測地線の離れ方というものが、空間の様態によって異なってくるのか。これを直感的に理解することは可能であろうか。

平行移動と非ユークリッド幾何学の関係

このように、方向の比較という接続の考え方を用いて幾何学を再構成するのは、非常に面白い試行であるように思われる。ユークリッド幾何学は第五公準、つまり平行線の公準について内部で証明することができなかった。逆に、この考察は非ユークリッド幾何学という、つまり第五公準を成立させないような幾何学の存在を導いた。

平行線の公準というのは、つまり、方向の比較可能性という概念を用いて捉え直すことができる。つまり、ユークリッド幾何学という平坦な空間においては、どの点においても方向を経路に依存することなく、常に比較可能であったのに対して、非ユークリッド幾何学においては、第五公準が成り立たない、つまり、二つの方向を比べることが経路に依存し、一般には可能でないという幾何学を生み出すことになる。ここに来て我々は、空間の平坦性という概念を、異なる二点において、方向を比較可能であるか、経路に依存せずに可能であるか、という概念によって規定することができるということを知ったわけである。これは我々が、幾何学という分野において到達できる一つの深遠な哲学的な、あるいは数学的な到達点であるように思える。つまり、空間の平坦性という概念が、二つの離れた点における方向の比較可能性という概念によって、捉えることができるということである。これは全く、直感的には明らかなことではない。

接束を用いた曲率の定義

接束に接続を定義することで、水平移動が定義できる。しかし、二つの水平移動の結果、ppが一致しているにも関わらず、垂直方向のズレが生じることがある。しかし、水平移動の各点において、垂直成分が0となるようになっているのに、なぜ結果に垂直方向のズレが生じるのか。それは水平移動の意味が点によって異なることが原因のはずである。つまり、各点で無限小移動する時は垂直成分が0であるが、この移動が他の離れた点においては、垂直成分が0でないということである。垂直成分が0というのはあくまでローカルな話ということだ。

これを実証するためには、ある点における水平移動が、他の点でどんな移動として見えるかを調べればよい。しかしそのためには、ある点における水平移動を、他の点のそれと比較する必要がある。比較のためには、「向きを変えずに他の点に移動させる」必要がある。ここで循環が生じる。つまり、水平移動の性質を調べるために水平移動を用いなければならないという構造になっている。ズレていると分かっている装置を使って、その装置のズレを調べねばならない。したがって、せいぜい分かるのは、ズレた装置で測った2つの結果のズレということになる。ある水平移動の結果得られた点は、当然垂直方向にズレていない。実際にはずれているのかもしれないが、それを知る手段自体がずれているので検出はできない。しかしこれは、歪んだ定規で歪んだものを測っているからまっすぐに見えているという状況である。絶対的なズレは検出できない。検出できるのは、二つの水平移動の結果がズレるという、相対的な差だけである。

では、具体的にはどうやってその相対的な差を検出すれば良いだろうか。

それには、二つの水平移動の結果得られる2点を比べればよい。そこでX,YX,Yという二つの水平ベクトル場を用意しよう。点ppからXX方向へ水平移動し、qqへ至る。次にYYに沿って水平移動してrrへ至る。X,YX,Yを単にppにおける水平ベクトルとするわけにいかない理由がここにある。qqにおいてYYを考えるためには、YYが単にppだけに存在するだけでは不十分である。しかし、この場合ppqqYYが変化していることを考慮しなければならない。また逆にppからY,XY,Xの順番で水平移動してs,ts,tという点を得たとしよう。問題はr,tr,tの比較である。

X,YX,Yは水平ベクトル場であるから、それに沿った移動は当然水平移動である。r,tr,tは水平移動の結果得られる2点であるから、この2点には垂直方向のズレが無いように思える。もちろんr,tr,tが一致しないのは当然である。それはXXあるいはYYが互いの流れに沿って変化しているからである。問題は、ズレの垂直方向成分である。

r,tr,tの無限小のズレを表す接ベクトルは[X,Y][X,Y]と表される。この意味を少し考えてみよう。接ベクトルは幾何学的解釈としては方向とか、無限小移動という意味を持っていたが、数学的には方向微分、あるいは微分演算子として定義されていた。つまり実体としては、関数に作用する演算子なのである。したがって一つの接ベクトルを決定することは、それが表すべき「関数に対する演算」を決定することになる。今の場合、それが[X,Y]=XYYX[X,Y]=XY-YXによって与えられている。ところで、方向微分の場合、演算を決定するには無限小近接した2点を指定すれば良かった。そこで[X,Y][X,Y]という演算がどんな2点を定めるのか見てみると、それがこれまでの議論におけるr,tr,tだと分かるのだ。

例えばXYXYが接ベクトルでないということと比べてみよう。XYXY[X,Y][X,Y]と同じように二つの点の差として見ることは出来ないだろうか? 一見、p,rp,rの2点の無限小移動を表す接ベクトルを取ればよいと思えるが、これはXYXYという演算の結果を表さない。言い換えれば、XYXYという関数に対する演算は、p,rp,rという2点の無限小移動を表す接ベクトルが表す演算としては表現出来ないということだ。実際に関数ffについてf(r)f(p)f(r)-f(p)を計算すると、接ベクトルはその主要項を表していて、XYXYは2次項の一部であることが分かる。一方で[X,Y][X,Y]について、f(s)f(t)f(s)-f(t)を計算すると、接ベクトルはその主要項で[X,Y][X,Y]と一致していることが分かる。

さて、ω\omegaを接続形式とすれば、[X,Y][X,Y]の垂直成分はω([X,Y])\omega([X,Y])で与えられる。これが一般には0でないということだ。つまりX,YX,Yについて、水平方向という意味が場所によって相対的にズレていることを意味する。したがって、一般に二つの異なる水平移動を行うと、場所によって水平移動が異なるという相対的なズレが蓄積して、最終的な垂直成分のズレとして検出されることになる。

[X,Y][X,Y]が2次の主要部であることは、我々が曲率として相対的なズレ、つまり「ズレのズレ」を見ているということと合致する。実際1次のレベルでは二つの経路の差は見えない。垂直成分の無い二つのベクトルX,YX,Yを足しても当然垂直成分は0であるからだ。しかし、実際は二つの経路には差が生じる。それはXXの流れによってYYが僅かに変化することで、実際の経路には2次以上の僅かなズレが生じているからだ。これはYYがズレたことによって初めて生じるズレである。ズレが原因で生じるズレなので、その程度は2次以上である。このズレがあるからこそ、二つの経路は閉じずに僅かな隙間が生じる。[X,Y][X,Y]というのは、その隙間を生じさせている2次のズレを点の差=接ベクトルとして表現できているわけである。これは、二つの経路の相対的なズレを見ることで1次のズレが相殺されて消えたために可能となっている。

まとめ

我々は接続(形式)を定義することで、水平移動が可能となった。しかし接続、そして水平移動はあくまでローカルな概念であるから、ある点における水平方向が他の点では水平方向でないことが起きうる。この効果は、原理的に、二つの経路に相対的な差としてしか検出できない。二つの経路による水平移動を比較する最も単純な量が[X,Y][X,Y]で表される接ベクトルある。(局所的かつ最小要素)そこで我々はω([X,Y])\omega([X,Y])を接続の大域的なズレを表現する最も根源的な量として採用し、それを曲率と呼ぶ。

任意の接ベクトルに対して垂直方向成分を与える「ベクトル値微分形式」ω\omegaを与えると、水平部分空間はその核となる。

X,YX,Yの順番で流れるのと、Y,XY,Xの順番で流れるのと、実際は行き着く点は異なる。しかし、経路を十分に小さくとると、これは無限小移動となり、TMTMの接ベクトルとして表現できる。それが[X,Y][X,Y]である。もう少し正確に言えば、[X,Y][X,Y]は関数ffの方向微分である。それは適当な局所座標系を導入すれば確かめられる。また、この方向微分の方向とは、始点から、X,Y,X,YX,Y,-X,-Yで作られる経路の終点方向であると解釈できる。この平行四辺形が閉じないのは、XXに対するYYYYに対するXXの変化が釣り合わない残差のためである。

ω([X,Y])=0\omega([X,Y])=0を外微分で置き換えるのはあまり意味がない。なぜなら、外微分の一般的な定義を見て分かるように、これは括弧積を含んでいる。つまり、任意のベクトル場に対して括弧積を取ることを外微分という記号で省略したに過ぎない。したがって、曲率の定義において外微分を使うのも、括弧積を表に出して表現するのも、同じことである。MM上で曲率を表現するために共変微分を用いなければならなかったのとは、本質的に異なる。

足元の空間での翻訳

接束で曲率を定義したが、この定義を足元の空間に翻訳することが出来る。

接束での水平移動は、足元ではベクトルの平行移動となる。接束での点(p,v)(p,v)から出発して、水平ベクトル場XXに沿った移動というのは、足元では接ベクトルvvを平行移動していることになる。

接束で[X,Y][X,Y]で表される二つの経路は、したがって、二つの平行移動による経路となる。

そして、接束においてはω([X,Y])\omega([X,Y])によって垂直成分を取り出して、これを曲率と定義した。

接束で垂直方向成分を見るということは、足元ではループを閉じるという操作に対応する。なぜなら、足元で垂直方向成分のズレを見るためには、平行移動してループを閉じる必要があるからだ。ループを閉じなければ、純粋な垂直方向のズレを計算することができない。接束ではω\omegaがあるので簡単に垂直成分を取り出せるが、足元ではそれに該当するものがない。だから垂直成分、つまり足元での接ベクトルの変化を見るためには、ループを閉じて同じ点で二つの結果を比べる必要がある。ループを閉じるために平行移動することで、垂直成分は変化しない。というかそれが平行移動の定義であった。

接束における[X,Y][X,Y]という接ベクトルは、水平成分と垂直成分に分けられる。曲率の算出で無視されるこの水平成分こそが、ループを閉じるための平行移動に該当するというわけだ。

これを平行移動が無限小だとして共変微分に書き換えたものが、足元での曲率の定義となる。

接続とは結局何だったか

我々は球面S2S^2のような低次元の曲面の例を使って、その曲がり方、つまり法線方向の変化を接ベクトル空間の変化として読む方法として接続という概念を導入した。接続は、外側の空間がある場合は単に射影として定義出来たが、この「ガワ」、つまり接ベクトル空間の間の関係性という意味での接続は、外側の空間に頼らずに定義することが可能であった。このことが、内在的幾何学のスタートラインであった。

重要なのは、曲がり方の次元であった。つまり、法線方向の変化が単に1次元、つまり巻物のような曲がり方なのか、それとも、どの方向へ進んでも異なる法線方向の変化が得られる、「真に」曲がっているのかということだ。

球面のような多次元の曲がり方をした空間の場合、接続は空間の各点において異なる。つまり、ある点での接続=平行移動が別の点では平行移動とみなされない。これによって、平行移動の結果が閉回路で異なることとなる。この議論は、低次元の球面の場合に法線方向の変化が場所によって異なるから、接続が点によって依存し、それが曲がり方が2次元ということを意味していたのを、外側の空間抜きに行っているわけだ。

しかし、外側の空間抜きの接続は、ガワとしては体裁を保ってはいるが、それは非常に広範な概念である。つまり、ガワさえ保っていれば何でも許されてしまう。

そこで重要になるのが計量である。計量と整合性があってねじれが0の接続としてLevi-Civita接続が一意的に決定される。接続が何でも許されていたのは、むしろ計量と言う手掛かりが空間に存在していなかったからだと言える。球面S2S^2が我々が心で思い描くような「あの形」を成すのは、計量と言う点同士の距離が与えられてからである。なぜなら、点と点の距離が定まれば、もはや点は自由にその位置を選ぶことが出来ないからだ。規定された距離を守るために、点は所定の位置につくしかなくなる。一方で、計量を忘れ去った集合としてのS2S^2には形が無い。そんな空間においては、様々な接続がありうるというのは、想像に難くない。

計量が存在すれば、ある点ppにおいて「まっすぐな」座標線を描くことが出来る。具体的には、計量に関する最短経路としての測地線を用いれば良い。この座標系は、ppの無限小近傍においては完全にまっすぐである。(この座標系の問題はppを通る座標線だけが実際に測地線で、それ以外に「等間隔に」並んだ座標線は測地線ではないという点である。この歪みはppから離れれば離れるほど大きくなってゆく。)こうして描かれた座標系において成分が変化しない無限小平行移動としてLevi-Civita接続が定義される。これはかなり定性的な議論であるが、これを実際に計算で示すことも可能であるはずだ。

重要なのは、計量が二つの異なる点に関する情報を与えてくれることである。計量が距離という関係値を与えてくれることによって、それまで独立だった空間の点が相互に関係を持つことになる。この関係を視覚化したのがいわゆる「まっすぐな」座標系である。こうして得られる関係性を用いて、異なる2点における平行移動という「方向の関係性」を規定することが出来るのである。計量が無ければ、二つの異なる点には何の関係性の手掛かりも無いので、当然「まっすぐな」座標系のような特別な座標系を選ぶことは出来ないため、それらの点における方向の間に関係性を築くことも出来ないわけだ。

また、Levi-Civita接続のこの決定方法を見れば、なぜ曲率が生じるのか理解できる。計量はppの無限小近傍において距離を与えてくれる。これを利用してppを中心とした「まっすぐ」な座標系を導入し、ppに無限小近接したqqにおいて、同じ方向を向いていることを、その座標系に対して定義した。しかし、当然qqppとは異なる点なので、座標系はqqにおいて少しズレている。にも関わらず、qqの方向とppの方向との関係性をそのズレた座標系で構築したので、ppにおける方向とqqにおける「同じ」方向にはズレが生じている。これは「ズレのズレ」であるから2次のズレであり、このズレが蓄積されることで曲率が生じる。曲率が2次の無限小量であるのは、ここからも理解できる。

曲率を直感的に定義してみる(局所座標表示)


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最終更新: 2026-09-09